富山家庭裁判所 昭和41年(家)47号 審判 1966年3月31日
申立人 藤田昭男(仮名)
右法定代理人親権者父 谷本朝男(仮名)
主文
本件申立は、これを却下する。
理由
一、本件申立の要旨
申立人昭彦は昭和三五年五月一一日父谷本朝男と母藤田京子との間に出生した婚外子であるが、昭和四一年一月七日父朝男より認知され、同日父母の協議により親権者を父朝男と定められた。申立人は出生以来父母の許にあつて成長し、昭和四二年に就学することになるが、それに先立つて本年幼稚園に入園するため、今後母の氏では日常生活に不便であり、親子間の感情にも副わないので、父の氏を称したく本申立に及んだと言うにある。
二、判断
記録に現われた申立人並に親権者父谷本朝男の各戸籍謄本並に当裁判所調査官の調査報告書、谷本幸子よりの回答書を綜合すると、申立人昭男は昭和三五年五月一一日母藤田京子の子として出生し、昭和四一年一月七日父谷本朝男より認知され、同日父母の協議により親権者を父朝男と定めて、その旨の届出がなされたこと、父朝男は現在母京子と肩書地に同居し、申立人はその監護養育を受けて居ること、一方父朝男には昭和一七年一一月一七日婚姻した妻幸子があり、妻との間に長男一郎(昭和二二年九月二五日生)二女りつ子(昭和二六年五月四日生)三女伸子(昭和二九年八月一二日生)四女京子(三女同日生)があつて、父朝男の本籍地石川県河北郡○○町字○○に別居生活を営んで居ること、妻幸子はこれ等子女の将来のことを考え、放埒な夫の生活にも拘らず、且つ夫からの仕送も杜絶えた現在工場の下仕事や畑作の僅かな収入で子女の養育に専念し、且つ姑に仕えてただ子供の成長を楽みに生活を営んで居ること、妻幸子において斯る苦しい生活に忍従するのも子供を立派に育てたい一心からであること本件申立に対し妻幸子において、申立人を自分達の戸籍に入れることは、たださえ動揺し易い年頃のこれ等子女の心神に及ぼす影響や、今年漸く高校を終えて就職したばかりの長男の就職先における肩身の狭い思いをさせることや又三人の女の子の将来の結婚に際しても差障りになること等から反対の意思を表明していることが認められる。
ところで、当裁判所の谷本幸子に対する審問の結果によると、同女は昭和一七年一一月一五日燈台技手をしていた谷本朝男のところに嫁し、夫は当時宮崎県○○岬燈台に勤務していたので、夫の勤務地で同棲生活に入つたが、間もなく長女を懐妊したため、夫の本籍地に帰つて出産し、夫の許に戻つたものの、その後夫は○○岬燈台から愛媛県の○○岬燈台に転勤になり、転勤になつた後は空襲が激しくなつたり、妊娠したりしたため、夫の許で同棲生活をしたり、本籍地の姑の許に帰つたりの生活を繰返していたところ、昭和二二年夫が京都府○○岬燈台に転勤になつた際、当時農地を自作していないと取上げられて仕舞うと噂されていたため、夫の言に従つて夫の勤務地である○○岬へは赴かず本籍に留つて姑と共に農耕に従事することになつたこと、夫は○○岬燈台からその後更に鳥取県の○港燈台に転勤になつた後の昭和二七年春富山県で旅館組合を設立すると言うことで燈台技手をやめて本籍地に戻り、富山市内に部屋を借りて組合の仕事に専念することになり、本籍地と近い距離にあるため、妻が夫の許へ行つたり夫が本籍地の妻の許に来たりの夫婦生活であつたこと、妻が夫の許で同棲生活ができなかつたのは、本籍地に年老いた夫の母親が居たため、夫の許へ行ききりの生活ができなかつたためであり、妻の気儘からの別居生活をした訳ではない。妻は現在なお姑に仕え、姑と共に畑仕事や工場の下仕事による僅かな収入で四人の子女の養育に専念し、姑や子供と共に夫の帰宅を待佗びて居ることが認められる。
当裁判所としても、斯る貞淑な妻の意思に反し、又一家の平和を紊してまでも、本件の申立を許可することは、家庭の平和と健全な親族共同生活の維持を図ることを目的とする家事審判法第一条の法意にも添わないので到底許されない。結局本件申立は、その理由がないことに帰するので、却下することとし、主文のとおり審判した次第である。
(家事審判官 神野栄一)